昭和44年10月25日 朝の御理解



 御理解 第71節 
 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」

 いろいろと、信心が出来る理由とか信心が出来ません、お参りができません理由がお互いあるわけですけれども、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけと仰るのですから、まあ元気なときまあ言うならば、なんでもないとき。なんでもないときを、大事にせよとなんでもないとき、一生懸命信心の稽古をしておけとこう言うのである。ところが殆どの人が何かがあるときにあわてて神様、信心とこう言うのですね。
 ここんところを間違えないように頂かなきゃならない。お参りしようと思えば、お参りできるとき、しっかり信心のけいこをしておけとこう言われる。お参りしようと思えばお参りできるのにお参りをせずに、そして言うならさあ難儀だ困ったと言うときに、お参りをしてくる。そう言う様な所に、私はほんとの信心のけいこは出来ないと思うですね。(どうでしょうね?)、難儀なこと難儀な思いというときにはですね。
 稽古できるもんじゃありません。もうその事だけで胸がいっぱいですから。その事だけでもう頭の中がいっぱいですから。稽古のだんじゃありません。どうぞその事が成就致します様にと言う事だけで、結局稽古参りではなくて、お願い参りと言った様な事になるわけですね。ここへ信心の稽古一番最後のところにもある、一番初めにもここへは信心の稽古をしに来るのであるから、信心の稽古をして帰れとこう仰る。
 ですから一つそういう所を、これ71節からはわからせて貰って、皆さんの場合なんかはまあここん所をまめなとき、ここへ参って信心の稽古をしとけと仰る、それにしたごうておられると大体思います。そこで今度はそこんと頃がわかったら、次にまめな時にここへ参って信心の稽古をしておけとか、また信心のここには信心の稽古をしにくるのであるから、よく稽古をして帰れとかというふうに、教えておられます。
 今度はあの稽古の焦点なんです。ただなぁんでもない、ただもう毎日平穏無事じゃから有り難いから、お礼参りをしよるといいながら、本当にその実感した有り難さと言った様なものもないなりに、お参りをしておると言われる人も随分ありましょう。どうでしょうか。何かそこに一つの焦点をおいて信心の稽古に通うて、今はここを稽古しておるんだとか、今はここを習っておるんだとか。
 今日はここん所を教えて貰いたいとかっと言った様なその、疑問とか質問する所があるというかね、その解らない所を漠然としたものではなくて、はっきりとここへ焦点をおいての信心の稽古。稽古ですから矢張り。ただ通うてきとるだけじゃ、なぁんにもならんのです。ここへは信心の稽古に通うてくるのですから。稽古に通う。ただ通うて来ただけじゃという事が分かりますから、なら果たしてどこをどの様に焦点をおいて信心の稽古をするかということ。
 それが今申しますように、なにかそこに習らわなければならんから、頂かなければならんから何気なくだからというて、参ってきたんではですね、もうその稽古のゆとりというかね、いうならどんない良いお話を頂いても、自分の苦しい事で一杯ですから稽古は出来ません。そんなもんでしょうが。そこで一つそこん所をです一つ先ずわきまえての信心。しかもそこん所を、どこに焦点をおいての信心かという事を、自分で自問自答してみて、はっきり信心の焦点をおいて、向かわなきゃならない。
 まあほんとに是はいつもの、いつもいつもの事ですからけれども、いつもの事でも矢張り、本当に顔見合わせてから、神様の一分一厘間違いのないのには驚くですねぇというて、言わなきゃならない、ほどしのおかげをね、ここでは頂いております。私自身。昨日の朝もでした。秋永先生、久富先生が三万二千五百円でしたか、三万二千四百円、今日支払いがありますとこう言われる。
 そうですかっちゆうてから、それで繁雄さんもまた、残っておられましたから、久富繁雄さんと、久富先生と、3人であのそれを開かせて頂いて、お初穂開かせて頂いた。そしたらね、三万二千五百円ありました。(  ?  )ただ( ? )はないですたい。顔見合わせてから、こうやって感心するばかりでございます。もうほんっとにこの神様だけは、その様に間違いがないという事は、ただ大坪総一郎の上にだけ、その様に現れなさるわけじゃないのですよ。
 ですからね、神様はこの様にも絶対のものだ、間違いのないものだという事をです、私は基本にしなければいけないと思うのですよ。信心にはけい事いうここで絶対のものというか、神様の方にはです、確かに氏子におかげを下さろうとする働き、思いが一杯におありになる。氏子に難儀させようなんて思うておられないのだと。勿論それは経済の事だけじゃありません。ならすべてのことにそうです。
 人間が幸せになっていく事の為には、条件の為なら神様はその条件の全てをたらわせてやりたい。揃わせてやりたいというのが神様の願いなんです。それを私共がよく知らずにです、ただ悲しいときの神頼み的にです頼まんよりはよかろう、参らんよりはよかろう程度の事でです、それを絶対信じておらずにただああして下さい、こうして下さいというてねごうておるだけではね、いつまでたっても信心の稽古はできません。
 ここには信心の稽古にくる所じゃから。その信心の稽古が、段々出来れば出来るだけ、出来れば出来るほどです、正確なおかげが頂けて来る様になるのです。まあ言替えますと、例えば弓矢の稽古をさせて頂くと致しましょうか。向こうのほうにの離れた所に、丸い的がおいてあります。それをならこうやって、引き絞るだけ引き絞って、いわゆる満月のように、こう引き絞られなければその的には届きません。
 この位ばっかり引き絞ったっちゃあなた、途中でボトッとおててしまいましょうね。だからこれをいっぱいそれこそ、満月のような、このまず引き絞らなければいけません。だからといって力いっぱい、力も乗り越えて引っ張ってから、向こうも見らづ的も見らづにですよ、こうやって話したところでどこへいくやら分かりません。ちゃんと照準を決めておいて、その的へ向かって、しかも満月のようにここを引き絞って。
 そこへひょうとはなさすってもらう所にです、それは的の中心をという事は中々出来んに致しましても、そのそこを目当てに稽古をさせて貰うから、百ぺん千ぺん稽古させて頂きよる内にです、段々、段々この焦点に、それこそ百発百中と言う様に当たる様になる、腕がでけてくるのです。そう言う様に一生懸命に、お参りさせて頂いて、それこそ力の限り、満月のように引き絞った。
 引き絞っての信心をしたばってん、とうとうあらたじゃった。何の的を見よらんもん当らん筈ですたい。始めからそんなポクポク当たるもんか。それをずうっとその、的を目当てにしかも狂わないように当てていく稽古。あられぬ所にばっかりに当たりよったのが、段々、段々的の、いわばその近くにそれがいくようになり、段々中心に貫かせて頂く事が出来る様な、稽古をさせてもらわないけん。
 そのけいこを全然おそろかにして、稽古をしようとしない。どうでしょうか。的はどこにあるでしょうか。皆さんの信心の目当てというのはどこにあるでしょうか。目当ての実態というのではなくてから、あのおかげのところ、(  ? )の事ばかりを、言っておると言った様な事じゃないでしょうか。是じゃやはり信心の稽古は出来ません。それこそもう何十年一生かかって信心したって。
 まあ当たったり当たらなかったりという事になる訳です。勿論そのお取次ぎを頂き、そのおかげによって神様が様々に霊験を見せて下さいますから、はあ神様ちゃ不思議な方、お方じゃあると言った様な程度のわかり方ではなくて、不思議な事じゃない。もう当たり前の事としてそれが頂けるようなおかげ。五と五と足せば十になる。絶対の原理がある。所がどうも五と五と足したはずだけれども。
 八にしかなってなかったり、七にしかなってなかったと言うなら、是はどこにか計算を間違えているんだと、悟るべきだと思いますよ。お取次ぎを頂いてお願いをしてしかも一生懸命にお参りをさせて頂いたけれども、おかげを受けられなかったとするならです、もう、満月のように弓を引き絞っとったけれども、おかげをうけれなかったとするならです、そこにお互いがね、けいこ不足であることを悟らせてもろうて、本気で信心のけいこをさせてもらう。
 ほんとにですねもうそこんところに、焦点をおかれての信心の稽古をしなければ、遠い所お金をかけてお参りしてきてから、ただお願いしますとだけ言うて帰るような事じゃほっとに、こげん無味乾燥なことはないです。あじけのない事ないです。お参りして来たが最後ほんとに一言でも御理解頂かせてもろうて、その御理解の中から自分の心に、はあこれは今日は、ここんところを焦点にけいこさせてもらうぞと。
 はあ今までしよらなかった所を、この様な表現で今日は頂いたと。そういう私は稽古をしなければもうこげん、信心がつまらん事はないです。拝み信心お参り信心じゃつまらん。頼み信心だけじゃいかん。どこまでも信心の稽古でないと。そういう人に限ってです、この71節のそのね、只今私が申します所のですたい、おかげは我がうちで受けよという所ばっかりをほおここの信心ちゃ、おかげは我がうちでうけられるばいなぁと。
 お参りはせんで。(    )やら、うちで子供がある者や日傭取りは出て来るわけにはいかんと、病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。だから何かここんところをです、忙しいときには参らんでよかっといったふうに思うとる。そしておかげは我がうちで受けよと言う、もう自分の都合のよかとこだけを考えて、そして実際は難儀なときになって、あわててお参りをしてくるというのが、多いですね。
 それを信心だと思うておる。だからだからここん所を間違えない様に難儀な時に、ここへ参って信心の稽古をしておけと仰る事は、なんでもない時いうなら順調な時。平穏無事な時。それこそしっかり参って信心の稽古をしておかなければいけんと言う事。是では矢張り稽古が身に付かない訳です。同じ所をグルグルグルグル回っております信心ですから、おかげもグルグルグルグル回ったかと思ったら、また次には取られとる。
 取られたかと思ったらまたもらう。またもらうとどんどん落としとるっと言った様な、おかげがですよ、一生かかったってダメじゃないですか。そこで今日は、皆さんにそのいうならなんでもない時に、本気で稽古に通おうと思えば、いわば矢張り苦しいときには、もう苦しいことで頭がいっぱいだから、稽古が出来んのは無理はない。だからなんでもないときに話がよう解るときに、話を聞き、それを行じさしてもらう稽古をしとかなければならんとこう言うのである。
 稽古をさせて貰うなら、やはり焦点がなからなければならんとこういう。どこをもって焦点にするか。それは神様が絶対間違いのないお方であるという事を知らなきゃならんと言う事。神様は絶対間違いのないお方だと。だから自分なまちごうとらんばってん、神様の方がまちごうてござると言った様な考え方をしとる人がおる。そうにゃ参ったばってん、おかげ頂かせきんなさらじゃったというふうに言う人がおる。
 自分が一分一厘間違いのない信心をしたような言い方をする人がおる。ばってん神様がまちごうてござると言うふうな頂き方をする人がおる。これじゃおかげにならん。神様は、絶対のもの。間違いのないもの。それをなら私がね、久富先生と繁雄さんと私、三人でです、昨日の朝、三万二千四百円必要だと言や、三万二千五百円、きちっとあったっちいうやつ。これがほんとにいつもの事なんですからここでは。
 だからこりゃ金銭だけのことじゃない。全ての事がそうなんです。そんなにも間違いがないのです。だからもしそこでそんなら、もしなら三万(  )しか無かったと言うなら、一万だけは、どこか信心の狂いがあったとしてです、そこんところを、私は極めていかなければならないのじゃないでしょうか。稽古をすると言うなら的がいる。弓矢の稽古をさせて貰うのには、やはり的がいる。その的もみらずにただ満月のように引き絞ったとか、一生懸命参っただけじゃいかん。
 その的に向かって百回も千回も、こうやって引いておるうちに、百発百中当たる様になると言うのである。私はいつもそういうふうに申すんですが、神様絶対間違いのない。私は子供のときに、あの軽業今のサーカスです、今の事がある丁度何軒か向うの方へ女の人が目隠しをしてこうやって立っている。こんなふうにして立っている。ふすまこう壁の前に。それをこちらから離れてですね、手裏剣の様な物をもってですね。
 かぁっと投げる。もう首のここへ刺さるんですよパッパッと。手をこう広げとるがこう手の指もまた一本一本刺さっていくんです。もうそれこそ手に汗握るような芸当ですよ。とてもこの投げる方の人がですね、自信がなからなければ出来るこっちゃないです。どうでしょう首のここに刺さったり目に刺さったりです。もう体の五体中のですね、周囲にぜんぶ何十本かの手裏剣を刺してしまうです。一本が狂うたって命とりです。
 と言う様に投げる方の方には自信があり、投げる方の方には絶対なものがある。ならここで私の事を言うならこりゃもう神様じゃない。神様は絶対だと間違いがないとこういうこと。ならここではですお取次ぎをさせて頂く私がです、私の絶対のものを長年の体験によって、神様はこんなにも間違いのないお方だと言えれる、私が言う通りさえすれば、おかげになると断言できる。
 言うならば皆さんをむこうの方へ立たせて、こちらから投げとるようなもんです。所が皆さんの方がです、危いのはなかじゃろかと思うてから、ちょっと手を引っ込めたり、ちょっと顔をよけてみたり迷うてみたりするから、おかげにならんのです。私はその位ないわいる自信というか、その軽業師じゃないけれども、それをお取次ぎの働きというものを、こんなにも間違いのないことを私は確信している。
 それで先生が投げられたことが、手に当たったとか、ここに当たったとかとみんなが、例えば言うとするならです、あんたどんが動いとるからという事。動揺しとるからと言うこと。迷うとるからと言うこと。私が言うた通りにしとらんからっと、言わなければならんのでございます。そのように金光大神御取次ぎの働きというものは間違いないと、取次ぎさせて頂く、私は信じております。
 ですからどのような場合でも動かんですむ、親先生まかせというたら、本気で任せきる不動の信念というものを作っとかなければいけないという事になる。昨日久留米の佐田さんが、ある商品の仕入れのことについてお届けになった。まあ買わせて頂いてよかろうか、まいっとき先に見合わせて頂こうかというのである。だから私は早く買っときなさいとこう申しました。買うときなさいと。
 それは私がどの様な事からそうして断言できる、買うときなさいと。さあ買うときなさるがよかろうっち思います、というのではなくて、買うときなさいと言えたかと言うと、お知らせを頂いたのがね、「日に、月に、都」と頂いた。なにがなんやらわからん。神様はですね、絶対その場合ですね、そりゃこうときなさるがよかですよ、必ず先になると値段が上がりますよっと言った様なふうには、教えて下さらんのですよ。
 私が皆さんに申しましても、私が頂くのは必ずそういうふうな事です。半呪文のようです。だからそれだけ非常に意味が深いです。はっきり言うたら、もうそれだけでしょうが。はあ神様がああ言うて下さった、先生がああ言うて下さった、からそのおかげを頂くためには、ならこちらが間違いのない信心をしなければならんという、あんにそういう言い方を、神様はいつも表現してくださいます。
 ここ三日、四日ですよ。例えばなら、病気が治るでしょうか、治らんでしょうかと言う。そりゃあんたの心次第ってちたいっちいわなでけんじゃないですか。いかに治るというても治らんかもわからん。信心次第じゃ治るというのである。ですからね、そういう場合例えば、なら、一つの仕入れさせて頂く場合でも、ははあ日に月に都と頂いたから、ここへんから都といや、都は都にゃ上るもんですからね。
 九州から都の方へは上るものですから、ははあこりゃ日に月にですね、だんだん上がっていくばいなと、私はこう思うたわけです。値段がだんだん値上がりすると。だからはよ今のうち仕入れときなさいと、私はこう言うたわけですけれども、日に月に都というその上っていくにしましてもですよその過程が、ならこれからお江戸は三百里ていう、三百里の間があるじゃない。
 だからそのところをなら、大事にしていかなきゃいけないということなんです。都ということが、落着でしょう。そこまでいくまでには、その間を実意を持たず、その間は、我がよかごとしといてから、買えっちいいなさったばってん損したなんていうことになるわけです。この間にわからせて頂くものが、私大事だとこう思うです。その間が今日言うならば、信心はあ神様ああいうふうに頂いたが、ここはどう頂くべきであろうかというふうに、私は信心の稽古の焦点をそこにおかにゃいかんと思う。
 同時に私がね、信心の焦点というものをね、本当にこのようなおかげを頂いてもよかろうか、ほんとに勿体無い信心もできもせんのに、このようなおかげを頂いて、家庭も円満にいきよる。平穏無事である。べつにあれと困ることのないほどしのおかげをうけておるというような時にはです。いよいよ神様の心を分からせて頂こうとする、遠い神様の言うならば、遠いところにある、その神様の思いをね。
 言うならば望遠鏡でみるような気持ちで、信心せにゃいかん。もうこげなおかげを下さってあるが、信心もできんのにこのようなおかげを下さってあるが、神様は私に何を求めておいでであろうかと、言うような信心をしなきゃいけん。今度は、自分が難儀なとき、困ったとき。痛い痒いとき。そういうときにはね、自分の心をもういよいよ深く深く、私は見つめてみなければいけないと思うです。
 なるほど、こういう汚い心があって、神様がおかげを下さらんはずだというものを一つ、知らにゃいかんです。自分の上にもこんなに難儀をせんならんのは、こういうそれこそ神様が、目をつぶんなさる、神様が目を背けなさるものが、内容があるじゃないか。それでいて、だれも知らんからと思うちから、改まろうともしない。それでは、おかげの頂けれるはずがないじゃないかと、言うものを自分の心を深く反省していくというか、見極めていくというか。
 信心のけいこというのは、そこに焦点がおかれにゃかいけない。一つのことを願うにいたしましてもです、頭ってそれが、おかげを頂きゃいいけれども、右と願っても左、左と願っても右というようなときです、あたくしは、そういうときに、いつも神様の心の向こうの方を見ようと努めましたよ。本気で。神様が私に何を求めておいでだろうかと。神様が私にどういう信心をせよと仰っておられるであろうかと。
 そしてありとあらゆる修行もさせて頂き、ありとあらゆる言うなら自分でできるだけのいわば先輩、先達の方達がなさったと言う様な修行、人間がした修行じゃから、私にできんはずがないと思うて、どんな修行でもさせて頂いたまね方でも。右と願っては左、左と願っても右じゃもん。どんなに願ってもそこでこりゃ修行不足なら、修行不足であると思うて一生懸命、なら桂先生がなさった修行も。
 石橋先生がなさった修行も、様々にあれこれして、みせて頂いておるうちにです、わからせて頂いたいわゆる結論は、どこにあったかと言うとですね、もう右と願えば左、左と願えば右のとき私はいよいよ、私の願いが成就しておるのではなくて、神様の願いが成就しておるなということであった。例えばこういう御簾を編むときに、筒の子っていうんですかね、筒の子が右になったり、左になったりしていきよる。
 どうしてじゃろうかと思いよったら、この御簾が段々出来上がっていきよった。みすを奉れという御教えがあるでしょう、私共の御教えの中には。愈々それよりかもっともっと素晴らしいおかげの方が、成就していきよる途中であった。神の言うならば、神様の、大坪総一郎の願いではなくて、神様の願いが成就しておるときであったと解らせて頂いたら、その難儀な事が有り難うして、有り難うしてたまらなかった。
 右と願っても左、左と願っても右、というときにです、それが有り難うてたまらなかった。そこに私は信心があったと思うです。神様の心をわかる。神様の思いをわからせて頂こうとする意欲、または自分自身の心をです、愈々深く深く見詰めさせて頂いて、自分の心のそこから、改まらせてもらう、ざんげさせてもらう。そしてここんところを改まらせて下さいとねごうていく信心。
 そういう私は生き方がです、信心の稽古の焦点だと私は思うのです。信心の稽古の焦点、そこにおかにゃ、おかげが焦点じゃない。自分の信心、心の内容こそが信心の焦点です。そこへ向って、始めの間は、それがあたっとらんようにあるけれどもです、段々、段々、稽古していくうちにです、それこそ稽古が稽古になっていく。仕事が仕事を教えてくれるようにです、信心も巧者になってきてそれがいうならば、百発百中当たるような、おかげになってくる。
 例えていうならば、必要なものが必要に応じて、頂けてくるようになるという。しかも、一分一厘間違えもなく。そこに信心のそれこそうまずたゆまずの、精進が求められるわけなんです。そこでその精進もです物の稽古事というものはです、はあ今日もまたけいこせんならんけいこそのものが楽しい。段々それにね十本のうちに、七本当たるようになった、八本当たる様になったという事がです、楽しみでしょうが。
 だから、信心もそういうところにおかげの楽しみじゃなくて、信心を進めていくことの楽しみを、身につけていかなければならんという、私は71節というのは、そういう事を教えておられるんだと、忙しいものやら火の鳥やら、うちに病人があったりする事やら、参ることはできんからとこう仰っておられるから、はあ自分はもう忙しいから、お参りせんでよかばいのと言ったような、安易なことをここで、頂いちゃならん。最後のところに、まめなときここへ参って信心のけいこをしておけと仰る。
 そこんところを大事に。参ろうと思えば、参られるときに、本気に参って、信心の稽古をしておいて、そして百発百中当たるようなおかげを、いわば(  )をつんでおいて、成程これなら、家でおかげが受けられる筈だな、さあ火急なときにいちいち、お参りをしなくてもおかげが受けられるんだなあということが分かりますでしょ。
 71節を今日、そのように稽古の焦点、稽古の焦点をです、先ずもたなきゃならん。それにはまず、神様の絶対性、いうならそれを絶対愛といってもいいでしょう。神様は絶対愛のお方だと。という事は氏子を幸せにせねばおかんとか、幸せになってくれよという願いだけしかもってござらんという事も神様は。そこんところがまず基本にならなきゃいけない。そこからこちらがね、稽古に稽古を積んでいく事によって、その絶対愛を独占するというか、それを十分に分からせてもらい頂けば分かる。
 そこでなら、信心の基本が分かってから、なら、焦点をどこにおくかというと、自分の心におくべきだと。又は神様の心におくべきだと。神様の心の奥深く分からせて頂ける、神様が私にどこを求めておいでであろうかと、言う信心。また成るほどこれじゃおかげを頂けんはずだというものを自分の心から探求していけと。それを探し出していけと。いうふうに今日は申しましたですね。
   どうぞ。